1.面積
181,035平方キロ(日本のほぼ半分)
2.人口
14,865千人(2012年政府統計)(国連統計部)
3.首都
プノンペン(2011年人口1,550千(国連統計部))
4.民族
カンボジア人(クメール人)が90%とされている。(日本国外務省)
5.言語
カンボジア語(日本国外務省)
6.宗教
仏教(一部少数民族はイスラム教)(日本国外務省)
7.政体
立憲君主制
8.元首
ノロドム・シハモニ国王(2004年10月即位)
9.首相
フン・セン(人民党)
Samdech Hun Sen)
1951年生まれ。
1970年代、反ロン・ノル闘争当時、北京亡命政権である王国民族連合政府軍のクメール・ルージュ軍の下級部隊指揮官として従軍。1975年4月のプノンペン攻略の際、負傷により左目を失明。
1977年6月 クメール・ルージュの過激な政策に粛清の危険も感じてポル・ポト派を離脱しベトナムに亡命、反ポル・ポト軍を結成 。
1979年1月 ポルポト派の支配していたプノンペンの陥落により、人民革命党中央委員および常任委員会委員。また、「カンプチア人民共和国」(ヘン・サムリン政権。新プノンペン政権、反クメール・ルージュ)の外務大臣。
1981年5月 コンポン・チャム州選出国会議員当選。
1981年6月 プノンペン政権閣僚評議会副議長(副首相).
1985年1月 プノンペン政権閣僚評議会議長(首相)。
1990年9月 カンボジア最高国民評議会(SNC)メンバー。
1991年10月 カンプチア人民革命党がカンボジア人民党に改称。現在に至る。
1993年7月 国連管理下の総選挙の結果、ラナリット殿下とともに暫定政権の共同首相。
1993年9月 新憲法が発効してカンボジア王国が成立し、第二首相。
1997年7月 ラナリットの外遊中に武力クーデターを起こし、連立相手であったフンシンペックを政権から排除。
1998年11月 首相。
2004年7月 首相に再任。2008年の選挙でも人民党が圧勝。しかし、2013年の下院選では、人民党は定数123のうち過半数の68議席を確保したものの22議席減。フン・センは首相には再任された。
10.貨幣単位
リエル(Riel)
1円 = 約34リエル
1米ドル=約4,000リエル
(2015年05月時点)
但し、カンボジア国内では、ドル紙幣が広く流通し、ドル紙幣(コインは不可。)での支払いが可能。お釣りの1ドル未満はリエルでもらうことになる。米ドルが潤沢でないところでは、1ドル以上もリエルになる可能性がある。
11.1人あたりGNI(2012年、国連統計部)
898.6米ドル
12.産業別従事者(2012年、国連統計部)
工業18.6% 農業51.0%
13. 主要産業
農業(GDPの33.6%e)、縫製業(GDPの9.9%e)、建設業(GDPの6.5%e)、観光業(GDPの4.6%e)
14.貿易品(日本国外務省、2012年、カンボジア経済財政省資料)
主な輸出産品 衣類(55.1%)、ゴム(2%)
主な輸入品 織物(37%)、石油製品(14%)、車輌(4%)、煙草(2.0%)
現地に行っての印象として、繊維製品の縫製は比較的良好。洗濯した際の色落ちも経験していない。また、デザイン等も、毎年新しいものが出てきていて、顧客の好みに合わせようと努力していることを感じる。
15. 主な貿易相手(2012年、国連統計部)
輸出先 米国(25.9%), 香港(21.5%), シンガポール(8.7%)
輸入先 中国(30.6%), ベトナム (13.3%), タイ(12.8%)
16. 主な援助国
日本(120.6百万ドル)、豪(74.3)、米(57.2)、独(44.4)、ADB(149.7)、世銀(96.0)
((日本国外務省) 2011年推計値、出典:CDC,CRDB(Development Effectiveness Report 2011))(単位:百万ドル)
カンボジアに関わる日本のNGOに関し、日本平和学会の2011年春季大会での山田裕史さんの報告によれば:
・ カンボジアに事務所を置かずに活動している団体を含めると、約150の日本のNGOがカンボジアで活動している。
・カンボジア自体のNGOも数が多く、財団法人型団体が1,933、社団法人型団体が1,274あり、合計3,207団体。なお、初めてカンボジア人によるNGOが設立されたのは1991年。
・1980年代、カンボジアに関わる日本のNGOが初めてできた。(多くの援助NGOの草分けでもある。)最初は、1979年に難民を助ける会、続いて、1980年の幼い難民を考える会、日本国際ボランティアセンター(JVC)、1981年のシャンティ国際ボランティア会(当時の名称は曹洞宗ボランティア会)など。但し、日本とカンボジアに実質的に国交がなかったため(日本は、実効支配しているヘンサムリン政権ではなく、西部の一部を支配しているに過ぎないポルポト政権を認めていた。)、日本のNGOがカンボジアに入ることはできず、それらの団体の活動は、タイ国内にある難民キャンプで行われた。
・ 1985年9月、JVCが初めてカンボジアに事務所を置いた。
・ 1991年、パリ和平協定締結を機に、他の日本のNGOもカンボジアに事務所を置くようになった。また、カンボジア国内にNGOが急増した(カンボジアの国内NGOとともに、カンボジアで活動する海外NGO)。活動を終えたUNTAC関係者が作ったNGOも多い。
・ 1993年9月、カンボジアで活動するNGO等により、日本にカンボジア市民フォーラムが設立された。
・ 1990年代末に政情が安定し、治安も回復。それを受け、2000年以降、カンボジアで活動する日本の新興NGO増加。それらの設立主体は、財団、企業、学生等、多様であった。定年退職した人が作ったNGOも少なくない。
17.歴史
(1)領域の大きな変化
現在のカンボジアの領域は上図の通りであるが、歴史的には、大きな変遷をたどった。
9世紀から13世紀には、現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分(現在のベトナム南部、ラオスのほぼ全域、タイのほぼ全域)を支配していた大帝国クメールであった。そのため、タイ国内には、アンコール系の遺跡が残り、また、カンボジアに近い地域以外にも、カンボジア系の言葉を母語とする人々の集落がある。ラオスの山寄りの地域の人々はクメール系が普通である。しかし、10世紀頃から、他民族に押されて雲南省方面から徐々に南下していたタイ族は、1238年、スコータイを制圧し、タイ族最初の王朝を作る。1350年には、タイ族2番目のアヤタヤ王朝が成立。やがてスコータイ朝他のタイ系王国を併合。このようにタイ族が国家を成立させ、勢力を拡張するとクメール帝国は後退し、更にベトナムの侵攻も加わって衰退して行った。フランスによるインドシナ植民地化の頃には、かつての中心であったアンコール周辺もタイの手に落ちていた)。フランスによる植民地化が無ければカンボジアは無くなっていたと言う人もいる。
フランスは、インドシナ植民地獲得の際、タイの保護領になっていたラオスについては、タイに譲ってメコン川までをタイの領域とし、カンボジアについては、アンコール周辺までを支配していたタイを押し戻した。第二次世界大戦後のラオス、カンボジアの独立に際し、この境界が維持された。フランス領インドシナ成立の際の境界線変更の経緯から、タイの人々の間には、アンコールワットもタイのものであるとの主張がある。しかしながら、境界線は、いつの時点を見るかによって大きく変わり、タイとカンボジアの境界についても、フランス領インドシナ成立直前を基準とするのではなく、それ以前を基準とすれば、タイとラオスのほぼ全てとベトナム南部もカンボジアのものであるとの議論も成り立ち得る。しかし、世界では、植民地の人民が自らの国家を作ることと、今後は武力により国境を変更することをしないとする国連憲章の規定に沿って、世界的に、不満や矛盾をはらみつつも、憲章の採択された1945年時点若しくは植民地からの独立時の境界線を維持している。この地域でもそれに従っているのが、理性的判断の結果である。
歴史的な地図(表示のないものは、テキサス大学Perry-Castañeda Library Map Collection)(各国家の領域の変化地図においては、古くからある国家ほど地図も早い時期に始まっていることにも注意。カンボジアは、近隣諸国に比べてたいへん古い歴史を持つ。)
(2)植民地独立以降の苦難
ベトナム、カンボジア、ラオスの人々は、フランスからの独立を果たした後、厳しさを増した東西対立の中で、米国に支援された勢力とソ連に支援された勢力との間の内戦に苦しんだ。その戦争は、米国の撤退とその結果の共産勢力の勝利により、漸く1975年に終結した。ところが、カンボジアにおいては、勝利したクメール・ルージュが、ポル・ポト他の主導の下に、原始共産制を思い描き、知識人の多くの虐殺、多数の虚偽の密告によるものを含め、また、子供や一家全員を含め、反体制派と見なされた者の虐殺、プノンペ等の都市住民の農村への強制移住、教育その他の近代の制度の否定等を行い、1975年4月から1979年1月までの3年半ほどの短期間に200万とも300万とも言われる多数の命を奪い、社会を崩壊させた。その時の社会の崩壊により、カンボジアの人々は、教育に当たる人々の不足、同じコミュニティーの人々の間の不信感等々から、いまだ十分には立ち直れていない。
知識人や反体制派と疑われた人々を
拘束し、拷問し、虐殺していた、
高校の校舎を改造して作った
Toul Sleng収容所の個室収容施設。
ここでは1万4千人余りが虐殺された
と言われる。 |
Toul Slengの拷問の行われていた部屋
(建物外でも、逆さづりしてかめのし尿に
頭を入れる等の拷問が
行われていた。) |
ポルポト派幹部を裁いている
カンボジア特別法廷の内部
(法廷本体写真手前の傍聴席は
ガラスで仕切られている。) |
カンボジア特別法廷の外観
(法廷とは別に裁判官、事務職員等
の執務室棟が右手前にある。) |
カンボジア特別法廷の敷地内にある
被告の収容施設 |
ヒューライツ大阪の2003年の
現地訪問報告 |
ヘン・サムリン、フン・セン等、自らの粛清の危険を感じたクメール・ルージュの一部幹部はベトナムに逃れ、やがて1979年、ベトナムとソ連の支援を受けたヘン・サムリン派がプノンペンを陥落させ、政権を樹立。しかしながら、ポルポト派は、中国の支援の下に、タイ国境近くで勢力を維持した。かつ、国連は、中国の拒否権もあり、ポルポト派をカンボジアの正当な政権として扱い、カンボジアの大半を実効支配するヘン・サムリン政権は、国際社会から孤立。その支配地域の人々は、復興のために大きな支援を必要としていたにかかわらず、支援を行ったのは、北欧等の少数の国と少数のNGOにとどまった。
1884年 フランス保護領カンボジア王国。
1953年 カンボジア王国としてフランスから独立。
1970年 ロン・ノルら反中親米派、クーデターによりシハヌーク政権打倒。王制を廃しクメール共和国樹立。
親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦。
1975年 KRが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立。同政権下で大量の自国民虐殺。
1979年 ベトナム軍進攻でKR敗走、親ベトナムのプノンペン(ヘン・サムリン)政権擁立。
以降、プノンペン政権とタイ国境地帯拠点の民主カンボジア三派連合(KRの民主カンボジアに王党(シハヌーク)派・共和(ソン・サン)派が合体)の内戦。
(年表部分は日本国外務省ウェブサイトによる。)
(3)UNTACから現在まで
冷戦終焉後、1991年10月23日にパリで調印されたカンボジア和平協定に基づいて、国連は、漸く、カンボジアを実効支配してきたヘン・サムリン政権をも正式な当事者として、国連カンボジア暫定統治機構(United
Nations Transitional Authority in Cambodia (UNTAC))を1992年2月に発足させた。国連事務総長の指揮下に、選挙による新政府樹立までの暫定期間中、外交・国防・財政・治安・情報の各省を直接監督下に置き、同国の事実上の全権を管轄した。選挙による新政府樹立後の1993年9月、任務を終了。
日本からは、自衛隊から停戦監視要員8名とカンボジア派遣施設大隊600名、警察官75名、選挙要員として国家公務員5名、地方公務員13名、民間人23名のが派遣された。しかし、日本からの中田厚仁国連ボランティア
(United Nations Volunteers) と高田晴行警部補の2人が命を落とした。事務総長特別代表として、明石康国連事務次長が直接の責任者として大きな役割を果たした。
1993年の国連管理による選挙の結果、首相を2人置くなど、政治的妥協の策がとられた。また、憲法の発効とともに、カンボジアは、シハヌーク国王の下、立憲君主制を敷いた。その後、権力闘争の中でフン・セン首相が他の勢力を追い落とし、特に2008年の選挙以降は独裁性を強めた。しかしながら、2013年の選挙では、かろうじて過半数を維持するにとどまった。人民党の大幅後退の要因については、ポル・ポト時代を知らない若い世代が有権者の多数を占めるようになったために、「ポル・ポト時代に戻ってもよいのか。」というフン・セン派の脅しが効きにくくなったことや、インターネット等を通じて若い世代を中心とする有権者が互いによく情報交換をするようになったことなどが挙げられている。
UNTACから現在までの政治闘争については、カンボジア政治を専門とする山田裕史さんの解説(『一党支配体制下の議会:中国、ベトナム、ラオス、カンボジアの事例から』、アジア経済研究所、2004年)を参照。2013年の選挙結果については、山田さんの分析(アジア経済研究所『ワールド・トレンド』219号、2013年12月)を。
- 1991年パリ和平協定。
- 1992年国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動開始(1992-93年、日本初の国連PKO参加。)
- 1993年 UNTAC監視下で制憲議会選挙、王党派フンシンペック党勝利。新憲法で王制復活。ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権。
- 1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突。ラナリット第一首相失脚。
- 1998年 第2回国民議会選挙。第一次フン・セン首班連立政権。
- 1999年 上院新設(二院制へ移行)。ASEAN加盟。ポルポト派壊滅。武力紛争の完全終結と政治的安定の実現。
- 2003年 第3回国民議会選挙。
- 2004年第2次フン・セン首班連立政権発足。
- シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位。WTO加盟。ASEM参加決定。
- 2008年 第4回国民議会選挙。第3次フン・セン首班連立政権発足。
- 2013年 第5回国民議会選挙。第4次フン・セン首班連立政権発足。 しかし、経済の高成長の歪に不満を持ち,政治の変化を求める声をあげた若者たちに熱烈な支持を受けた救国党が躍進し55議席を獲得した。人民党は、90議席から68議席へと大幅な議席減でかろうじて過半数を維持。
- 2015年11月 最大野党・救国党のサム・ランシー党首、日本・韓国外遊中に過去の有罪判決に関する逮捕状が出され帰国できず。
- 2017年 6月、地方評議会議員選挙で、救国党は1955議席から5007議席に躍進。
- 9月、救国党の党首となったクム・ソカー氏が、アメリカの支援を得て国家転覆をはかろうとしていたとして逮捕される。併せて、解党命令により同党所属の政治家が排除される。
- 手英字新聞社のカンボジアデイリーは、6月に多額の税金の支払いを求められ、クム・ソカーの逮捕を報じる号を最後に廃刊。
- アメリカに本拠を持つクメール語ラジオ放送ボイス・オブ・アメリカ(VOA)やラジオ・フリー・アジア(RFA)のプノンペン支社を閉鎖するととも、これらの放送を情報省に適切な許可を取らずに放送していたカンボジア資本のラジオ局も処分
- 11月にはRFA所属のジャーナリスト2人が閉鎖後も記者活動を行っていたとして逮捕
- 6月、結社および非政府組織に関する法(NGO法、2015年制定)を根拠として、選挙監視NGOが2013年総選挙の際に選挙監視活動を展開したことがNGO法の求める中立性に抵触するとして,このような活動を封じる。
- 8月には,アメリカ民主党系のNGO全米民主研究所(NDI)が、未登録で活動していたとして閉鎖され、外国人職員は強制退去
- 2018年7月、総選挙で人民党が125議席を独占。但し、8.5%が無効票。「投票に行かない」という選択肢を取ることがすなわち野党支持者とみなされることを恐れた人々がこのような選択をとったとされる。
(年表部分は日本国外務省ウェブサイトによる。但し、1999年後半部分は、山田裕史さん資料を参考に加筆。2013年以降は、初鹿野直美「カンボジアの2018年総選挙を振り返る」初鹿野直美編『機動研究中間報告『カンボジア:最大野党不在の 2018 年総選挙』』アジア経済研究所 2019 年による。)
18.開発課題
経済的低開発、社会的低開発、政治的低開発のすべての面で課題を抱えている。
そのうち、経済的低開発について、日本の外務省は、2007年から2011年までの5年間の実質GDP平均成長率は6.0%を記録し、縫製品や靴の輸出増加が大きく貢献しているが、農業も成長し、観光業もアジアを中心とした観光客が順調に増加しているとし、近年海外直接投資が順調に増加しているので、今後も安定した経済成長が見込まれているとしている。
しかしながら、社会的低開発のうち教育に関しては、小学校への就学率が上昇し、更に中学への進学率も上昇しているが、周辺国に比べると、まだ就学率が低い。また、小学校では、学校の数は足りても、教員の確保が十分にできていないこと等、ポル・ポト時代に学校制度が廃止され、また、教員を含む知識人の大半が虐殺された影響からまだ十分に回復していない。他方で、進学者の増えた中学では、校舎等の施設自体も足りていない。
保健・医療に関しても、JICAの「カンボジア王国保健セクター分析報告書」(2014年)によれば、子どもの健康に関する指標のうち、栄養状態の改善に遅れが見られるものの、5歳未満児死亡率、乳児死亡率は既にミレニアム開発目標(MDGs)を達成している。妊産婦死亡率においては、過去ずっと高い率値で推移してきが、カンボジア人口保健調査2010によると5年前の半分以下(206,出生10万対)にまで下がってきており、長年の母子保健事業の成果が出始めていると判断される。しかしながら、近隣のベトナムやタイに比して、未だかなり高い値である。マラリア有病率も、ラオス、タイ、ベトナムと比べ5倍強となっている。特に熱帯林地帯の居住者は少数民族や貧困層が多く、保健サービスに関するメッセージが届きにくく、必要なサービスを受けにくいことから予防対策等がいきわたらず、マラリアに罹患する確率が高い。保健医療サービス供給については、壊滅的に減少した人材、医療保健提供施設を回復すべく努力がされているが、十分な研修を受けることなく医療従事者が現場に配置されているなど、質に大きな課題がある。地域間、民族間格差も大きい。地雷・不発弾もまだ多く残っている。
政治的低開発に関しては、上記17(3)のとおり、人民党の独裁性が高まってきたが、それに並行して、その土地を使っていた人がいるにかかわらず企業に「経済的土地利用権」が付与されて人が追い出される問題が多発している。また、貧富の差が拡大している。2013年にはその勢力が大幅に後退するという現象が起こっている。
カンボジア、ラオス、ベトナム、タイの学校の概略(2015年1月14日宮田作成)
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学校制度
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義務教育
|
就学率、入学率、在学率
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その他
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小学校
|
中学校
|
高校
|
大学
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カンボジア
|
6・3・3・4
|
中学まで
|
就69%
|
就17%
|
就10%
|
就0.7-1.0%
|
*1
|
ラオス
|
5・4・3・4
|
小学校のみ
|
入84.2%
(1年生退学率34.1%)
|
入54.8%
|
入34.4%
|
|
就学年齢の規定無し。
小学校の数が不足。小学校教員の19%は適切な研修無しで就任。
ラオ語ができないためについていけない子供が多い。
教員養成課程(17歳から)は、小学校教員は1年間、中学教員は1-3年間。
|
ベトナム
|
5・4・3・4
|
中学まで
|
就96.0%
|
就79.3%
|
就41.3%
|
|
|
タイ
|
6・3・3・4
|
中学まで
|
在103.5%
|
在98.4%
|
在72.2%
|
在47.2%
|
学校はほとんどが国立または私立で、公立は例外的。
|
情報源: 外務省「諸外国・地域の学校情報」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/01asia/index01.html
*1 平山雄大「カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②―学校教育の発展と崩壊(1958 年から1979 年)―」、早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊 19
号―2 2012 年3月
(https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/35649/1/KyoikugakuKenkyukaKiyoBetsu_19_2_Hirayama.pdf)
ポル・ポト政権は毛沢東の思想を奉ずるままに急進的な共産主義政策を断行したため,国内は大混乱に陥った。同政権は,従来の社会的価値や人間関係を根本から否定し,集団による農業を中心とした原始共産制社会への回帰を目指した。伝統文化や宗教は否定され,貨幣制度や経済活動は廃止され,私有財産の保持は禁止された。学校は閉鎖され,校舎は倉庫や収容所として使用された。…
子どもたちは解放区の生産共同体で集団労働生活を営んでいたが,そこでの教育は政治教育に重点が置かれ,共産主義思想及びクメール・ルージュの思想を教え込む教育の他は,技術を学ぶ手段としての最低限の読み書き及び計算に関する教育が行われているに過ぎなかった。子どもたちは『社会主義国家建設のための4 ヵ年計画』で語られた理想的な教育像に従い,半日を学業に費やし,残りの半日は農業,牛や豚の飼育や養鶏,灌漑水路の建設等に従事する生活を送った。教員の役割はポル・ポト政権以前からの解放区の住民である「旧人民」が担ったが,教員資格を持っているものは皆無であり,教員自体が非識字者であった場合も多かったようである。教科書や筆記用具不足も影響して,読み書き及び計算に関する教育の質は相当低かったと考えられる。このような教育活動は1975 ~ 1976 年頃は活発であったが,第2,第3 の強制移住が実施される中で,次第に行われなくなっていった。
ポル・ポト政権による非現実的な食糧増産計画は早い段階から失敗を重ね,食糧危機がカンボジア全土を覆い飢餓が蔓延した。また,同政権は政治権力保持のために内部の「敵」の粛清を始め,(元)僧侶,教員,医者,技術者等は真っ先に弾圧の対象となり多くの知識人が処刑された。同政権が権力を握っていた3 年8 ヵ月の間に,教員の75%,大学生の96%,初等教育及び中等教育を受けていた子どもたちの67%以上が飢餓,病気,過労,そして処刑で亡くなったと報告されている。当時亡くなった人々の数は100 万人とも300 万人とも言われており,政権終了時,生き残った初等教員は約8 分の1 の2,800 人,前期中等教員は約10 分の1 の207 人のみであった。国土は疲弊し人材も枯渇し,ポル・ポト政権発足以前の教育開発の努力は無に帰した。
統計データ等
お勧めの参考図書
- 上田広美・岡田知子(編)『カンボジアを知るための62章』(第2版)、明石書店、2012年(リンク先にあるとおり、専門研究者等が書いた包括的な解説書。なお、改定があると「62章」ではなくなる可能性があります。初版は「60章」でした。)